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歴史的事実は「実在」するか?

『歴史を哲学する』(野家啓一著)の読書メモです。

野家は、私たちの心を離れた、「歴史自体」の存在を否定します。

今日は、野家がどうして「物語り論」の立場をとるのかのうち、その「歴史自体」が存在しないと考えるのはなぜなのか、についての部分のみ抜粋して、まとめようと思います。

テーマは「歴史」ですが、すでに存在しない歴史的事実(と考えられるもの)は理論的構成物とも言え、電子はあるのか?といった実在論を考える上での手掛かりにもなると思うからです。

論点①:「歴史的出来事」と「歴史的記述」は鶏と卵の循環関係になっていて、不可分=「解釈学的循環」(p.43~)

  • 「歴史的出来事」は「歴史的記述」に先行する。出来事があったからこそ記述することができる。
  • しかし、「歴史的出来事」は、現在は知覚不可能
  • よって「歴史的記述」において「歴史的出来事」が理解される。

(歴史的記述を離れて歴史的出来事は存在できない。)

言語学の解釈学的循環=文は各要素からなっている。(語は文に先行する。)

しかし、各語の意味は文脈によって決まる。(フレーゲ「語は完全な文においてのみ意味を持つ」)

「存在」と「認識」の間にも循環がある:

「あった」ことにより記述が行われるが、記述によってこそ「あった」ことが分かる。

「なかった」は記述できないし、記述されないと「なかった」ことになる。

循環関係にあるのものは互いに不可分であり、それぞれを独立して考えることはできない。

論点2:科学のパラダイム論に相当する議論をしたのがダントー(p.10,53,54,77~など)

例:かつては実在を信じられていた神武天皇は架空の人物となった。

例:虚構と信じられたトロイア戦争に関する遺跡がシュリーマンによって発掘された。

よって、「存在は認識に従属する」。

「事実の理論負荷性」ともいえる。

「意味」と「出来事」は循環関係にある、とも言え、独立に分割できない。

「真の歴史的事実」というものがあって、それが永続するもの、だと考えることは難しい。

論点3:カントが否定した「物自体」と、「過去自体」はパラレルに比較可能。

 カントは、「現象」と区別して「物自体」を想定することができなかった。これを歴史論から説明する。

まず、歴史はすでに消えているので「想起」されないと実在を表さない。(共時的世界における実在との差異)

また、「想起」は「再現」や「模写、模倣」ではない。

 「再現」でないこと・・・骨折して痛かった経験を思い出しでも、痛む訳ではない。

 「模写」でないこと・・・「実物」と「写し」の比較が不可能。これはもう「想起」=「過去の実在」とするしかない。

この議論は、カントの「現象」と「物自体」の関係とパラレル(p.103)

そして「カントですら理論哲学の領域では「物自体」の存在を論証できず、認識を現象の範囲内に限らざるをえなかった」ため、「過去自体」が存在する、ということも難しいのでは。

もっと深く理解するためには、カントが「物自体」を否定した論理を追わなければならない。

(おそらく、人はどうしても「物」を意識=現象の内に表象して認識するから、表象上で「本物」と「コピー」を比較するのが不可能、という論理?)

よって、「過去自体」と「命題」を見比べて「真理」かどうかを判定しようとする「対応説」をとることは不可能。

最後に

野家は、大森荘蔵の「想起過去説」から多くの示唆を受けています。

大森荘蔵『時間と自我』

「過去なるものが実在しそれについて語る、というのを逆転して、過去形での語りの中で過去なるものがはじめて出現するのだ、と心を鬼にして考えるのである。〔中略〕しかしそれは過去が実在しないということではない。ただ過去なるものが想起という意識の外に独立して実在するのではなくて、想起される命題の言語的意味の中に実在するのだ、と言っているのである。【猪鼻中略】誤解を招く恐れがたっぷりあるが、過去とは言語的に制作されたものである、と言えるだろう。そして、その言語的制作にアリストテレスのポイエーシスの語を当てたいのである。」(p.104,105)

これは、言語論的転回という学界の潮流と軌を一にしています。

野家による大森の乗り越えとしては、

  • 想起は本当に「命題」だけで記述できるのか?

例:あの人、顔ははっきり思い出せるのに名前が浮かんでこない。

  トラウマのような、身体的記憶が説明できない。

  • 大森の「想起過去説」は個人の「体験的過去」に話が限られている。体験不可能な「歴史的過去」との繋がりが明確でない。

といった課題を想定しています。

これらを、外部記憶装置の概念を援用するなどして乗り越えたのが、野家の物語り論になります。

難しい言い方ですが、歴史的事実が「実在しない」とは言っていません。

しかし、上記の大森の議論は、カントでいう「統制的理念」の実在を認めるのみであって、野家の立場はあくまで反実在論です。

本人曰く、自身の立場は「柔らかな反実在論」だそうです。

私は、自然主義の立場から「実在論」を擁護する戸田山先生の議論も好きなので、両者の違いをじっくり検討してみたいと思います。

つまり、継続課題として頭の片隅に入れて置き、ふとしたときに思い出しながら考えていきたいと思っています。

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