結論から言うと、哲学は非常に実践的で、生活に密着していると思います。
前回の記事は、歴史哲学と言えるような内容でした。
どうして歴史哲学を考える必要があるのでしょう?
それは、歴史に関する論文を書こうとすると分かります。
「この主張をするのに、根拠はこれで十分なのだろうか?」
「この資料群からだけで、本当にこんなことを言っていいのだろうか?」
という葛藤と、論文の著者は常に闘っていると思います。
それに答えるのが歴史哲学です。
僕は、今のところ、野家先生の言う「歴史自体」は存在しないという言説に納得してしまっているので、手元の資料群からある言説を紡ぎ出すのに逡巡したときは、勇気を持って一歩踏み出すことを優先しようと思っています。
なぜなら、本来的に歴史記述は、記述者の文脈の中に位置づけられるからです。
それを学んでから、論文執筆に対する心持がプラスに変化しました。
もちろん、あくまで実証を重視する立場もあると思います。
それは、論文の書き方に反映されるはずであり、それが良いことだと思います。
これは、歴史家の話だけに限りません。
科学者の科学的活動でも同様だと思います。
「自分が行っている実験は正しいのだろうか?」
「自分が置いている仮定や、結果から考察していることは、本当に正しいのだろうか?」
こういった問いは、考えながら活動している人なら必ず考えることだと思います。
正しさの根拠を、コミュニティで共有されている規範に求めることもできるでしょう。
しかし、その規範はなぜ正しいと言えるのか?
そこまで考えてしまうと、必要なのは哲学です。
科学者は哲学が嫌いな人もいるでしょう。
しかし、科学哲学者は出自が理工学部であることもままあります。
また、科学哲学者としても有名な自然科学者は、デカルトやニュートンなどの古い事例を持ち出すまでもなく、マッハ、ポアンカレ、ラッセル、日本だと坂田昌一など挙げればきりがありません。
(最近だと誰になるのでしょうか?)
こういった人々は、何も物好きで科学哲学に取り組んだわけではないと思います。
歴史家と同じように、「自分がやっていることは、なぜ正しいと言えるのだろうか?」と考えたときに必要だったのが哲学だったのだと思います。
すなわち、哲学は自分を正当化するのに必要なのです。
自分をなぜ正当化できるのか?
それを他者に認めてもらおうと思ったときに必要な思考が、「哲学」と呼ばれてきたのだと思います。
それは論理実証主義であったり、社会構成論であったり、知的相対主義であったり、超越論だったり自然主義だったり色々でしょうが、とにかくそれぞれのやり方で、自己正当化に使われてきたのだと思います。
そう認識すると、自然哲学者の哲学的言説は、その人の科学的実践と切っても切り離せないこと、というよりも密接に関係していることが分かります。
ポアンカレは、構造的客観性を追い求めました。
それは、彼のトポロジーに対する関心と密接に関連していたと理解するべきでしょう。
哲学的議論は、抽象的な装いになります。
なぜなら、その動機が自己の主張の一般化による正当化だからだと思います。
自分個人の考えを話しても、周りは説得できません。
周りを説得して自己を正当化するためには、その議論が普遍的であり、なるべく多くの事象を説明できる必要があります。
そこでどうしても、「具体的に何を考えているの?」という文章になりがちです。
そう詰まった時は、「この人は他にはどんな問題に関心があったんだろう?」と目線を変えてみると、「もしかして、こういうことが言いたかったのかもしれない」とヒントをもらえることがあると思います。
哲学は、自分を正当化するのに必要な議論。
そう考えると、哲学というのは非常に具体的で、実践的かつ実用的で、生活に密着しているものなのです。
でも、他人が何を言っているのかを正確に理解するのは、非常に難しいですね。
以上の考えが変わったら、また記事にしたいと思います。
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