高木仁三郎氏によって、2000年に書かれた本です。
JCOの臨界事故で、作業員2名が亡くなった事故が、1999年に起きました。
その事故の直後に書かれた本です。
タイトルがまさに本質的な問いであり、20年以上経過した今でも色あせることなく、むしろ重要性が増している議論ばかりに感じます。
以下、要点をピックアップして読書メモとします。
高木が本書で目指したのは、技術論ではありません。
「もっとそれのもとになるような問題、つまり原子力の組織とは何なのか、組織を構成する個人とはいったいどうあらねばならないか、そこから考えていきたいのです。」(p.22)
組織の中の個人を考えないと、「安全を尊ぶような個人の意識が組織全体に反映し、組織の団結的な意識になっているというような組織の作り方が、はたして可能なのかどうか」も議論できないからです。
私の問題意識(「なぜ、個人はこのように行動してしまうのか?」)そのものです。
結局、「個人がどう行動すべきか」、これが私が考えたいことであり、高木と共鳴していると感じました。
上記の点に関わることで、本書で最も重要なメッセ―ジは、「個人の中に見る「公」のなさ」だと思います。
「公」は「公共性」とも言い換えられます。例えば、燃料材料生成において、
「政府がやっていることだからそれはプラスになるような単純なレベルではなくて、この燃料を作るということは日本の原子力計画の中でどういう意味があって、それは将来どういうところにつながっていくのか、もう少し深刻に考えて、その中に自分の営みを位置づけるということを、日常的な訓練としてやる」(p.104)
ことです。
つまり、自分がやっていることが社会にどのような影響を与えるか、常に意識して研究開発をすること。
難しく言い換えると、「自分」と「国」の間に「公共(public)」を想定することです。
「自分」が「国」と直接つながって結びつくことを、高木は非常に気にしています。
それは例えば、主語が「我が国は」になりがちであることや、官僚が「国の政策に沿うかどうか」で公共性を判断することなどに現れます。
つながる「国」が「公共的」であればいいのですが、悪い風に「国」とつながると、そこでは主体は「没個性化」してしまいます。
「没個性化」している状態が、悪い社会化です。
「公共」のためには、一人一人が考えて問い続ける「市民」でなくてはいけません。
ではなぜ「私」=「国家」=「没個性化」という構造になってしまったのかというと、科学を西洋から輸入してきたときに、普遍性を没個性としてしまったことや、日本での原子力のスタートがそもそも政治主導のトップダウンであったことなどを挙げています。
私の研究では、電力会社では必ずしもトップダウンとは言えなかったことを示しましたが、電力会社の下請けとなるメーカーでは違ったのかもしれません。
メーカーの風土については、本書が非常に参考になりますが、今後の研究課題の1つです。
とにかく、この「公」の意識が各技術者にないと、原発事故がくりかえすことになります。
次に大事なメッセージは、「技術者像の変貌」だったと思います。
事故の後に科学的・技術的検証をきっちりして次に繋げる、という行動様式を取らない、データの故意の隠蔽や、数値の改ざんに手を染めてしまう、これらは、真っ当な「技術者像」からはかけ離れた姿です。
また、技術者ならば基本的に身につけているべき感覚(もんじゅ事故のもとになった、流体中に角ばった装置を入れてしまう、などのミス)が失われてきています。
「技術者像が変貌したこと」により、原発事故はなくなりません。
では、なぜ技術者像が変貌してしまったのか?
それを高木は、IT化、バーチャル化にもとめます。
物理学者は、自分で実験し、放射能の発熱反応や放射能漏れを経験することなく、シミュレーションを回すことのみで研究するようになりました。
エクセルでコピペすることには、器具から読み取った数値を手書きでノートに残すのと違い、改ざん時に生じる罪悪感に差がありそうです。
しかしここの部分は、本当にIT化だけから技術者像の変貌を語ることができるのか、議論が甘い部分だと思いました。
以上、「公」の欠如や、「技術者像の変貌」を念頭に置いて、原子力問題においてどのような現象があるか見ていきます。
例えば、原子力村には「自己防衛本能」がはたらいているように見えます。
データや情報を出さない秘密主義。自己検証、特に自分に不利な検証は行わない。隠蔽、改ざんは保身のため。
これらは、自己防衛として表出します。
「議論なし、批判なし、思想なし」の三なしも、原子力村に見られる現象です。
この根っこにも、公共性(自己批判性)の欠如があると、説明できます。
また、結局経済第一優先になってしまうことも、これらを増長しています。
以上、本当にエッセンスだけを抜き出して、読書メモといたします。
本書で抜けている議論としては、「では「公」はどのようにしたら取り戻せるのか?」だと思います。
これを考えていくのが、私たち、特に私の課題です。
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