エンゲルスはまず、形而上学の限界を示して、対立候補として弁証法を支持する。
形而上学は、分析対象を、1つずつ、個々の要素に分解し、他と関係なしに、動かなく、固定した、永久不変のものとして扱う。
これは自然科学的還元主義や、自然科学者の博物学が念頭にあり、科学的手法の主流であって、限界に達するまでは意味のあるものだった。
哲学思想家としては、ベーコンやロックが形而上学に当てはまる。
これに対して、弁証法は、分析対象を全体として捉え、関連、連鎖、運動、発生、そして消滅の中にみる。
代表的な学者としては、カント、ヘーゲル、ダーウィンらが挙げられる。
例えばカントは、宇宙のはじまり論に関して弁証法的思考を提出した。
それまでは、ニュートンの神の一撃論があり、物体の運動は永続した。
一方カントは、回転星雲からの太陽系の生成を説き、将来の消滅を予言した。
これは後にラプラスによって数学的に基礎づけられ、分光器によるガス星雲の発見などの観測が続いた。
このように、物事を動的ダイナミズム、そしてその内には対立概念の葛藤を含むものとして扱うのが、弁証法的思考法である。
カントに続いて、ヘーゲルがドイツ哲学を完成させた。
ヘーゲルは弁証法を貫徹させた。
しかし彼の思考は観念的(イデア論的)であり、それは「逆立ちした弁証法」としてエンゲルスに批判された。
ここに、観念論に対抗する唯物論の必要性が出てくる。
ヘーゲルの観念論では、弁証法によって完全な思考枠組みが完成していた。
しかしこれは、弁証法自身と矛盾する。完全な完成はあり得ないからだ。
観念論(イデア論)では頭の中に真実があって、現実はそれの模写である。
しかしそれでは失敗だ。本来は、
現実があって頭の中は模写でしかないのだ。
これが唯物論であり、ヘーゲルが逆立ちと揶揄される所以である。
最後に、マルクスの偉大さを述べる。
マルクスの大発見は2つある。
1つは、唯物論的に歴史を重要視する「唯物史観」であり、もう1つは「余剰価値」の指摘である。
社会は、国家理念や理想的法律論によって形作られるのではない。
まず最初に「生産」と「交換」の、経済活動が存在する。
人びとは古来より何かを「生産」し、それを他者と「交換」することで生活してきた。
そして社会が生まれ、その上に国家が立ち、法律が作られる。
生産物という物体と交換をすべての基礎におくこと、これが唯物論である。
そしてマルクスやエンゲルスの時代の「交換」様式においては、資本家が余剰価値を収奪していた。
この問題の根本原因の特定をしたのは、マルクスが初めてだった。
「資本家が労働者を搾取していてよくない!」というそれまでの社会主義者に足りなかった点は、根本原因の特定であった。
問題は、生産品の交換様式において生じる余剰価値にあり、そこからすべて出発する。
この記述によって、社会学は「科学」となり、原理から出発して再現性を持つ理論となった。
「交換」においては何らかの「階級」が生じ、歴史的プロセスはすべてこの階級闘争として弁証法的に説明できる。
逆に唯物論的弁証法は、個々の歴史プロセスの詳細な検討によって、正当化される。
しばしば軽視されてきた歴史プロセスの詳述にライトを当てたのも、マルクスの独創性である。
以上が、エンゲルスの説明する、唯物論的弁証法である。
ポイントは、還元主義的形而上学と全体的弁証法、観念(イデア)論と唯物論を対比させることであろうか。
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実は、この第2章は、ギリシャ哲学を参照する部分が冒頭に置かれている。
弁証法は、ヘラクレイトスの「万物は流転する」と関連付けられている。
対立概念を1つのうちに含み、排中律を否定するのが弁証法である。
以下は、自分が考えたこと。
ギリシャ哲学で言うと、唯物論はデモクリトスの原子論(感覚は原子の物理的作用)と近いだろうか。
唯物論的弁証法は、これら2つをいいところどりして、合わせ技にしたもののようだ。
カール・ポパーは反証可能性理論を提唱し、反証可能でなければ科学と言えないのではないかと説いた。
果して、いい所取りした唯物論的弁証法に、反証可能性は残っているのか?
「科学的唯物論的弁証法」は反証可能性に耐えうるのか?
おそらく、多くの論者によって語られている古びた論点なのだろうが、今日、「科学的」「唯物論的」「弁証法」を理解した自分にとっては新しく感じられる。
今後も、自分なりに答えを出していくか、すでに答えを出している人の言説に触れてみたい。
カントの宇宙の始まり論も初めて聞いたため、「本当にそんなこと言ったのか?」と驚いた。
『自然科学者としてのカント ~宇宙の始まり論:神の一撃からビッグバンまで~』
のようなテーマで、自分なりにこちらも整理したいと思っている。
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