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歴史が分かるということと、物理が分かるということ

大学院に入って、歴史の授業を受ける機会が増えた。

歴史の授業では、先生がレジュメやカンペなどを見ずに1時間は延々と話をしている姿に接する。今までにない経験だ。

ある話題、もしくは問を糸口に、その後社会や世界でどんなことが起っていったかをつらつらと語っていくことができる。

僕はこれを「ドライブ」と呼んでいる。

一度車に乗ったら、ある程度道路に沿って延々と走っていけるのだ。

なぜそんなことが可能なのかというと、因果関係で説明ができるからだ。

こういう状況があって、こういうことが起ったら、人々はこんな反応を起こすよね。それが高まっていったり、何かに邪魔されていったりすると、次の展開を生むよね。

高める要因にはこんなことがあり、もしくは、邪魔する要因にはこんなことがあるよね、ということを話していけば、1時間はすぐに過ぎてしまうのだ。

様々な情報を関連付けて、1時間くらい話すことができれば、歴史が「分かっている」と言えるだろう。

僕は歴史が好きではなかった。

どうしても、論理的に覚えることができなかったし、論理的に説明することが不可能だと感じていたからだ。

単なる暗記科目であり、面白さを見出すことができていなかった。

一方、物理はどうだろうか。

こちらは、完全に論理的に説明ができる。

ある公式(僕は定理と呼んでいる)がどこから導かれてくるのかは完全に説明ができるし、説明ができないもの、すなわち実験によって自然から発見された法則(僕は原理と呼んでいる)は、「自然はそういうものだ」としか言いようがなく、覚えればよい。覚えるしかない。

そしてそのような原理は、歴史で覚えなければいかない用語・出来事ほどには多くない。

しかし、定理を原理や定義から導くことが出来るだけでは、もう一歩足りない。

なぜエネルギーという概念が必要なのか、なぜ運動量という概念が必要なのか。

そういったことに答えられないと、なぜそういう立式をするのか、という問に答えられない。

高校物理の範囲までで答えると、基本的に質点の運動は運動方程式を解けば完全な情報が分かる。しかし、束縛条件などがあると運動方程式を解いて答えを出すのは難しいときもある。

また、質点の運動を完全に理解したいのではなく、「こういう運動の条件は、初期条件がいつの時に達成されるか?」ということだけ知りたいときのように、特定の時点の運動のみ分かればよい場合も多い。

例えば、鉛直方向に360°回転するジェットコースターが最高点で落ちない条件だったり、ビリヤードにおいて、手玉はポケットに入れずに目標とする球だけポケットに入れる条件だったりがある。

そういうときは運動方程式をいちいち解かないで、予め運動方程式を積分しておき、「ある条件」の部分を代入して判定してやればよい。

予め積分をする操作は、運動方程式を解く操作と対応する。

位置で積分するとエネルギーと仕事の関係が分かり、時間で積分すると運動量と力積の関係が分かる。

こうして、「エネルギー」や「運動量」といった概念の必要性が理解される。

こういったことが説明できれば、物理が本当に「分かってきた」と言えるだろう。

僕が歴史を苦手だと感じてしまった原因は、因果関係の始まる糸口となる出来事が、必然的でなく偶発的に生じるものであったからだろう。また、因果関係にも、必然性を見つけられなかったからだろう。

しかし、因果関係のドライブを走らせるのに必要なのは、1つではなく複数の前提条件だったのだ。そしてそれは、多ければ多いほど舗装された道になっていく。

確かに、1つの事象から次に何が起こるか、ということは、特に社会で起きる現象では色々な展開が考えられる。歴史を完全に「演繹」で語ることは不可能だ。

しかし同時代を取り巻く状況であったり、対象とする地域と関連する地域の歴史的な経緯だったりを踏まえると、自ずと進む方向性は定まってくる。

さらに、歴史の先を知っていれば、そこにいたる筋道を説明することは難しくない。目的地が分かっていれば、現在地から目的地までの道筋は限定されてくる。

そして歴史で記述された道を1度でも通ったことがあれば、もう1回同じ道を通って同じ目的地に達することは難しくない。確かに2回目はまだおぼろげなハンドルさばきかもしれないが、3回目4回目ともなれば慣れてくる。

そうなれば、1時間のドライブも難しくはない。

また、語りの糸口となる出来事、ここでは物理の原理に対応する出発点になるが、それが偶発的であることは、複雑系の物理を思い出せば科学で説明ができる。

バタフライ効果と言われる、中国で蝶がはばたけばアメリカでハリケーンが生じるという喩えを歴史的事象に適用すれば、ある出来事が生じた要因を特定することは難しく、偶発的な要素があると言わざるをえない。

しかし、因果関係のもと、厳密に演繹することはできなくとも、説得的に語ることはできる。そしてそれは物理学で展開する論理と比べて、必然性が低いかと言われると、特に前提条件を3つくらい用意できればそうとは思えない、というのが最近の感想である。

一方、物理学で「分かった」説明をするためには、論理構造だけが分かっているだけでは不十分だと思う。

例えば、よくエネルギーと運動量の違いが分からない、と言われる。

そして、これは言葉、特にイメージで説明することは本当に難しい。

力を位置で積分したのがエネルギーで、時間で積分したのが運動量だと言ってしまえれば、どんなに楽だろうか。

エネルギーも運動量も、物体が持つ「勢い」だと説明されることが多い。

またエネルギーは、ポテンシャルという語と関連して、「仕事をすることができる能力」というこれまた持って回った様な、よくわからない説明が教科書に書いてあったりする。

実はこの概念は、歴史的に何人もの科学者を悩ませてきた問題なのである。

物体の勢いを表す量はエネルギーだ、とするライプニッツ派と、いや、物体の勢いを表す量は運動量だ、とするデカルト派の間で、長い間論争が行われた。

(厳密には今日から見ると、デカルトの言う「運動の量」はベクトル量でなかったことや、これらと「力」概念の混同があるなど、簡単には整理されないが、ここでは単純化している。)

そして、オイラー、ダランベールといった後続の科学者らによって、今のような古典力学が段々整理されていった。

つまり、「エネルギーと運動量の違いが分かりません」という質問は至極真っ当な質問であり、それは一口で説明できる類のものではなく、意外にも(?)歴史的な説明が効果的なのではないかと思う。

ライプニッツ派、デカルト派の論争を知ることで、自分の悩みを先人と共有し、悩みが徐々に解消へと向かうかもしれない。

以上を見てみると、歴史が「分かる」ためには科学的知識が必要であり、物理が「分かる」ためには歴史的知識が必要であることが分かる。

僕の場合は、歴史を好きになるためには、因果関係をもとにした説明が好きであることに加えて、前提条件を増やすことで推論(演繹)が強固になるという論理学的理解や、歴史的事象は偶発的でなければならないというカオス理論からくる一種の諦めが、一度苦手意識を持ってしまった歴史を克服するのに役立った。

また、物理の教員をしていて多くの質問に答える中で、歴史的な説明が自分にとっても生徒にとっても有効であることが分かってきた。

教訓めいており、しかも手垢まみれの言葉ではあるが、「教養」というものは「よく生きる」ために必要なものなのだと思う。

こんなことを考えながら、京王線に揺られて帰って来た。

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