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内村鑑三の無教会主義

内村鑑三は1861年、江戸小石川に生まれます。

父は武家階級で、儒教の影響を強く受けて育ちました。

子どもの頃から八百万の神を信じ、神社を通り過ぎる際は1つ1つにお祈りするような、信仰心のあつい子供でした。

父の謹慎で高崎、石巻などをめぐりますが再び上京し、東京外国語学校(のちの東京英語学校;東大の系譜)に進学します。

卒業後、札幌農学校に第二期生として入学します。

同級生には新渡戸稲造らがいました。

クラークはすでに帰国していましたが、彼が指導した札幌農学校の一期生たちは、多くの生徒がキリスト教徒になっていました。

日本の伝統に浸っていた内村は、最初はキリスト教に反発しますが、先輩の勧誘の圧力に敗け、とうとう署名をし、キリスト教徒になってしまいます。

しかし信仰すべき神が1柱だけになったためそれまでの煩わしさはむしろ減り、内村はすがすがしい気持ちになりました。

そこからの4年間は、いざこざはありつつも同級生に恵まれ、キリスト教徒として幸せな日々を過ごします。

在学中から自分たちの教会を建てることを計画し、これも紆余曲折あるのですが、なんとか卒業後に札幌基督教会堂を建てることができました。

しかし内村は、その後すぐに津田仙の学農社農学校の講師になるため札幌を離れます。そして次は農商務省入省と、職を転々としていきます。

この内村の放浪ぶりは、彼の性質なのでしょうか。今後も根無し草の生活が続きます。

札幌を離れて以来、心に空白を感じ続けた内村は、アメリカ視察を決意します。

自分がキリスト教徒になったきっかけとなったクラークの生まれた地、キリスト教徒の国とはどんなに素晴らしい場所なのか、その目で確かめることにしたのです。

しかし、旅先でも想像していたような幸福は訪れません。

到着して早々仲間がスリにあい、お金を盗まれます。

民族蔑視の文化も強く、差別的な待遇を度々受けます。

神の言葉が、人を罵る汚い言葉として使われているのを耳にします。

自分も、絹の傘を、船上で油断したすきに盗まれました。

日本を出て初めて日本を客観的に見ることができ、日本儒教の素晴らしさを改めて感じます。

「四千年前の中国文明でさえ、道に落ちているものを、だれも拾わないような社会状態を誇ることができました。それなのに、ヘンデルやメンデルスゾーンの音楽が魅力的に流れる、このキリスト教国の水上の御殿では、持物は盗賊の巣窟のなか同然の危険な状態でした。」(「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」岩波文庫 p.153)

失意の内村は、ペンシルヴェニアの知的障碍者施設で慈善事業をして働く医師に拾われます。

そこで看護士として働くこととなり、新たに出会った人々に少しずつ心が洗われていきます。

医師とその妻はキリスト教徒でしたが、彼らの宗派は異なりました。

内村は最初、その矛盾が受容できません。

キリストを神とする三位一体説と、神は1つでキリストはヒトだとするユニテリアンの主張は、どうしても相容れませんでした。

キリストは神なのか人なのか。もし人だとすると、キリストに祈り続けてきた自分の行為はなんだったのか。

しかし医師と妻は互いに認め合って暮らしています。

そこで内村は宗教的寛容に気づきます。

「真の寛容とは、思うに自分自身の信仰にゆるぎない確信を持ちつつも、あらゆる誠実な信仰に対してはそれを許容し認めることであります。自分がある(some)真理を知りうることを信じ、あらゆる(all)真理を知りうることを信じないのが、真のキリスト教的寛容の基礎であり、全人類の友好と平和的関係維持の源泉であります。」(前掲書p.183、強調は原文)

こうして徐々に心の平穏を取り戻していった内村は、知的障碍者施設を離れ、クラークの出身地であるニューイングランドへと向かいます。

1885年9月、内村は25歳にして、障碍者施設での収入をもとにニューイングランドのアマスト大学に入学します。

迎えてくれたのは、大きながっちりとした体躯、涙でうるんだ獅子のような目、力をこめた温かい握手、歓迎と情愛あふれるもの静かな言葉の学長でした。

彼のチャペルでの聖書朗読を聞くだけで、内村の魂は真情で満たされました。

内村は大学に入り直しそこで過ごす中で、全く新しい宗教的体験、回心を経験します。

ドイツ語の教授は「ファウスト」を教え、その悲劇は「この世の聖書」として内村を天雷のようにうちのめしました。

歴史の授業、地質学や鉱物学は、全て彼にとっては神学でした。

ある日、気分の良かった日の夕食に、内村は主の聖餐にあずかりたい気分になりました。

そこで野ブドウのジュースを絞り、ビスケット一切れを用意してきれいなハンカチの上に乗せ、夕食としました。

おそらく、キリストの血が葡萄酒、キリストの肉がパン、ということと対応するのでしょう。

教皇主義的な人からは「罰当たりな!」と怒られるかもしれませんが、内村は、

「人がカミをもつに至る道はいろいろ異なるのです。どうでもよいことでは自由に!」(前掲書p.228)

と述べています。他にも、洗礼者が近くにいなかった日本の友人が、夕立に打たれたことを「天水」と呼び、自分は「天」から洗礼を受けた、という話を引き、肯定しています。

この大学生活での他者からの慈愛に触れた経験、真のキリスト教への没入体験(回心)が、そして自分への自信の深まりが、後の無教会主義に繋がっているのでしょう。

アマスト大学卒業後、内村は神学校へと進みますが、そこでの授業内容に失望し、中途で退学します。

時に楽しみながら牧師を養成するための学校は、真剣に真理を探究する内村にとっては居るに堪えない場所でした。

ヒュームの懐疑論に対抗して、理論的に神の存在が説明できないかを本気で考えていました。

食べるための職である牧師に最初から興味はなく、むしろ生計を立てるための説教は忌み嫌っていました。

3年半にも及ぶアメリカ生活にも疲れた内村は、キリスト教国での修行を終え、日本に帰国します。

内村は、キリスト教が普通のやり方では日本人に受け容れられないであろうことを知っていました。

日本における道徳、生き方の学び方は、聖書に基づく説法や高壇からの説教ではありません。

日本人は、徳育と知育を区別しません。

学校が日本人にとっての教会であり、そこで全人格の形成が期待されました。

聖体、法衣、強制的な祈祷書、神学などは、キリスト教を日本に広めるために絶対必要なものとは、内村には思われませんでした。

それは幼いころの彼の出自や、彼の経験からくる直観でした。

札幌農学校での宗教的儀式は、小麦粉だるに青い毛布をかけただけの、簡素な道具で行われました。

「Be Gentleman.」

ただその言葉の真意が伝われば十分だったのです。

内村が考える、日本の思想よりキリスト教が優れている点とは、キリスト教の教えは実際の行動に繋がるという点でした。

これはダメ、これはよい、という教えだけでなく、キリスト教徒は実際に行動しなければなりませんでした。

アメリカは長らくキリスト教国ですが、アメリカという国が完全なものとはどうしても思えませんでした。

一方、道徳心を持つ人が多い日本の方が、キリスト教の真理に到達する可能性が十分に残されているのではないかと内村には思えました。

この後の普及活動に関しては、「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」では語られません。

しかし、南原繁や矢内原忠雄といった後継者を育てた内村の思想は、その後の日本社会に一定の影響を残したといえるでしょう。

========== 本日読んだ本 =============

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