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会津藩「日新館」におけるエリート教育

GWは福島県に行ってきました。

今日は、会津藩の学校(藩校)である「日新館」を見学した感想です。

2022. 5. 4 撮影;猪鼻

日新館は1802~1804年にかけて完成しました。

会津藩は1782(天明2)年から三年に渡り天明の大飢饉に見舞われ、飢餓や疫病が村落を襲いました。

それ以前から税の負担が大きく、農民は真面目に農作に励まず、賭博や風俗の乱れが蔓延していたそうです。

その状態を再建しなければならないと奮起したのが、五代目藩主の松平容頌(まつだいら かたのぶ)に仕えた田中玄宰(たなか はるなか)でした。

玄宰は復興の要を軍制の整備と教育の振興におきました。

軍備は操練(練兵;実際に体を動かして訓練にあたること)を重視する長沼流軍学を重視し、

教育は、理論だけでなく、国のあり方から政治、経済、立法の在り方など、実際の治世に役立つ学問「経世の術」を教える徂徠学を重視しました。

江戸から古屋昔陽(ふるや せきよう)という、儒者細井平洲と共に江戸学者の双龍といわれた徂徠学者を呼び、教育にあたらせました。

日新館には、上位武士の男児で、11歳~18歳までの子どもが入っていました。

各世代100人超くらいが入館し、全部で1000人ほどが学んでいました。

生まれで学歴が決まる、エリート養成教育校です。

教育内容は、素読を中心とした漢文の授業や、数学・天文・医学など理科系の分野もあり、また、軍備充実のために武道や弓術など防衛関係についても学ぶ、総合大学以上の総合大学でした。

また、知識・武術を身につけるだけでなく、儒教的な道徳教育も重視しました。

授業には、礼儀作法もありました。

有名な教えは、「ならぬものはならぬ」という一節です。

年長者のことは常に敬う、婦女子とみだりに会話をしない、といった教えもありました。

風俗が乱れていた藩を立て直すためには、こういった教育も必要だったのでしょう。

日新館の卒業生からは白虎隊に入隊する者も多く、戊辰戦争においてはお上のために、もしくは武士としての道徳のために非業の自死を遂げました。

反骨心の強い会津藩からは、明治政府に登用される人物もおりました。

白虎隊の1人、山川健次郎は14歳で戊辰戦争を経験します。敗戦後は東京に出て英語を学んでエール大学に留学し、日本で初めて物理学の博士号を取得します。

留学時のエピソードでは、日本人で初めてカレーライスを食べたと言われていますが、実際は米だけ食べてカレーは食べなかったそうです。

帰国後は東京大学の総長まで務め、大学教育に尽力します。

こういった人物を輩出した日新館でしたが、現代から見ると、「ならぬものはならぬ」という教えには疑問符がつくこともありましょう。

教育とは洗脳だ、という言葉もありますが、そのようなイメージが当てはまるかもしれません。

しかしそれはいつの時代も、エリート教育についてはある程度は当てはまるものだと思います。

非常事態においては、屈強な精神力がないと立ち向かっていけない場面があるものでしょう。

そのためには、日新館のような教育からは、学ぶべきものが多くあると思います。

一方で、どこかで「かわいそう」、という感情も湧いてきます。

色々と新しいことを学べて、1時間ほどしか見られませんでしたが楽しい見学でした。

とりあえず、朱子学と徂徠学についてもう少し知りたいと思いました。

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